仲村比呂のブログ

Written by Nakamura Hiro

「物語る」とはいったい何でしょう?

 人には物語が必要です。そう思うようになったのは、幼き頃いつか小説を書きたいと思ったのがきっかけでした。それも趣味ではなく職業的作家としてです。こういった話は、つまらない身の上話に過ぎないかもしれません。

 

 しかし身の上話というのも、他人にとってはつまらないものですが、本人にとってはいたって重大な問題です。なぜならその問題はどこまでいっても他人ではなく、当人のものだからです。

 

 人は身の上話を話す時は、相手にわかって欲しいと思っています。そして「辛かったですよね」、「わかる、わかる」という反応を期待しています。

 

 それが告白という言葉に置き換わると重大さが加味され、神様に向かうときは懺悔というさらに思い言葉に置き換わることになります。この身の上話、告白、懺悔という言葉から、人というのはとにかく誰かに自分のことをわかって欲しいと思っている生き物だということがよくわかります。それも出来るだけ深く、より真剣に意深刻に。それはつまり自分の存在を重く受け取って欲しいという現れだからです。

 

 ただそうは言っても、他人の身の上話です。いくら当人が手振り身振りを加えて熱弁振るいましょうとも、時に誇張して過激に着色したところで、つまらない話はどこまでいってもつまらないのがほとんどでしょう。

 

 そして時だけが過ぎていき、相手に伝わることは永遠にありません。しゃべった方がすっきりするだけです。その理由は簡単です。その身の上話が、一つの話として聞かせられるレベルに達していないからです。

 

 本当に面白い話なら、人は黙って聞くものです。たとえ作り話でしょうが、嘘話でしょうと、場合と相手によってはお金を払ってでも聞きに行きます。文字になっていれば書物として購入します。

 

 物語と聞きますと、ほとんどの人は小説とか漫画とか映画を連想すると思います。物語というのは表現活動の一つであり、非日常な行為である、と。

 

 しかし、物語るということは、そんなに特別なことではありません。どんな人でもいつでも、どこでも無意識のうちにやっています。それは生きていくためには、必須だからです。誰も人から理解されないと死んでしまいます。何とか自分というものを知ってもらおうとします。自己の存在の物語化を日々行っています。

 

 ひるがえると自分の場合、小さい頃から自分のことをうまく口で表すことができませんでした。無理に話そうとしますと、緊張してしまいちぐはぐな、ちんぷんかんぶんなことばかり言ってしまうのです。それを何とか一つの形にまとめるために、いつの間にか嘘や誇張を織り交ぜるようになっていました。

 

 そしてある時考えました。なぜ自分は上手く話せないか、と。しかしそれはいくら考えても答えが出ない問いでした。ありきたりの理由はいくらでも浮びます。人が怖いから。奥手だから。恥ずかしいから。バカにされると思うから、臆病だから・・・等々。

 

 しかし一般論をいくら並べても出口はありません 。そして理由がわかったとしても、上手く話せることにもなりません。自分の心や育った環境をいくらいじくりまわしても、心理学と社会学の迷宮に入り込むだけです。

 

 これから生きていく以上、やはり他人に自分の気持ちを伝えたいです。そこで何とかしようと思ったのが気持ちを文章にすることでした。その手始めが日記を書くことでした。

 

 母親いわく、幼稚園に入った頃から命令した訳でもなく勝手にやりだしたといいます。そして何となく始めた日記でしたが、書くことだけはべらぼうに楽しかった。日記を書き終えるとホッとして、心が少し軽くなったような気がしたものです。

 

 ただし、日記というものはどこまで行っても自分のためにしか存在しません。前提として、他人に読ませるものではありません。書いている内容も今日こういうことがあって、こういうふうにして、こんなふうに思いました。こう感じた、気づいたという身辺雑記に過ぎません。

 

 だから先ほどの身の上話のように他人が読んでもちっとも面白くない、そもそも本人にしろ二度と読み返しません。ですから小学生の高学年ともなりますと、日記を書くこと自体が虚しくなって、作業感ばかり募っていきました。そして、もし他人に読まれたらと思うような内容も多くなったのもあります。

 

 そして、気がつけばまったく日記を書かなくなっていました。しかし、相変わらず現実の中の自分は変わっていません。伝えたい思いだけは止め処もなく溢れ出してきます。一体どうすればいいのかと考えていた時、

 

「そうだ、これを物語にしよう」と思ったのです。それは自分にとって世紀の大発見でした。そして自然な流れで将来、物語ることを職業にしようと決めたのです。

 さらには、これが自分の天命であり、天職だと。

 

 これは、自分の思いだけで溢れそうなる世界と、自分を受け入れてくれない現実というリアルの世界という、隔絶した二つの世界に橋を渡すための唯一の解決方法だと思えたのです。

 

 こうして幼い頃から「物語る日々」が始まりました。しかし将来作家になるなんてことは、しょせんは普通の小学生が抱くたわいもない夢でもあります。当然ながら当時の自分には、それがどれだけ難しい道で、作家になれたとしてもあり続けること自体が一大事業だということを知るよしもありませんでした。

 

「物語る」、それは自分にとって人にわかってもらうための手段として始まり、それがいつしかそれなくしてはいられないツールとなり、その後の人生の分かれ道で生き方の方向を決める判断基準にもなりました。

 

 というわけで、第一回ということで、つい力が入りすぎてどこか固い言い回しになってしまいましたが、簡単に言ってしまえば、このブログは「物語ること」に取り憑かれた一人の人間の暮らしの手帖です。 

 

 しかし、今振り返っても、物語(あえて文学とは言いません)に全てを捧げ、夢見てきたことは、辛い思いも多く味わいましたが、決して不幸だったり無駄だったりとは思っていません。

 

 生涯の目標を早くに決めすぎるということは、その人の人生を歪めてしまったり、他の可能性を狭めたりすることがあるかもしれませんが、自分に関しては全くそいうことはありませんでした。

 

 もちろんあまりにも成果が出なくて、悔やんだこともありますし、未だ迷いがないわけではありません。

 

 しかし、暮らしの中で、物語る日々を送ることはとても素晴らしいということは一瞬も疑ったことはありません。それについては、毎回取り上げるテーマ中で少しずつ記していければと思っています。

 

 自分としては、この「暮らしの文学」というブログの中で、物語ることしかできない男が、人生を果てにどこに運んでいくのかどうかを見定めたいです。それがこのブログを始めた一つの目的でもあります。それと同時に、現実に対して無益でないことを証拠立てていたいとも思っています。

 ですます調なのか、である調でいこうか考えるだけで一週間を要した仲村でした。 

 ではまた 

生きるとは、自分の物語をつくること

生きるとは、自分の物語をつくること