仲村比呂のブログ

Written by Nakamura Hiro

そもそも、物語の始まりとは?

 ずっと前のことですが、テレビで外国に暮らす日本人を訪ねる番組をやっていました。その回は、ニューカレドニアに嫁いだ女性のものでした。

 ニューカレドニアという国は、かつてフランス領だったということもあって、全島がヨーロッパの避暑地的なイメージを持っていましたが、その女性が嫁いだのは、原住民が昔のように暮らす島でした。島に入って取材するのもその地の長老の許可がいるようなところだったのです。

 しかし、不思議なことに、島内には車も走り、観光客向けの立派なホテルもあります。暮らし方だけが昔ふうだったのです。日本人女性もそのホテルで働いている従業員でした。その夫が原住民の一人でした。

 番組の中で、その日本人の女性は夫を愛していながらも、終始イライラしていました。なぜならその夫が全く働かないからです。

 家の増築工事も、全て自分たちでやっているのですが、見事なぐらいに作業が進んでいません。

 毎朝、仕事に出かける前に、女性が夫に一日でやっておくことを細かく指示していくのですが、ほとんどやり遂げたことがないのです。やろうとはするのですが、しょっちゅう休憩したり、すぐに飽きたり、友達が来たりしてしまって、中断してそのままになってしまいます。

 そして、天気が良いと、一緒に釣りなどに行ってしまうのでした。その夫の本来の仕事は、浜辺にいるヤシガニを捕まえてホテルに卸すこと(かなり高価)ですが、これも生活が逼迫してこないとやろうとしません。ですから、女性が仕事から帰ってくると、まったく状況が進んでいないことに、怒りを爆発させるのです。

 私も、最初の時は、この男性はなんて甲斐性がないダメ男なのだろう、どうして別れないのだろうと思いながら見ていました。

 しかし、だんだんと番組が進むうちに、怠けたり、働かなかったりするのはその男に限ったことではなく、その島の住人全員だったということがわかってきたのです。

 ニューカレドニアという島は、元々温暖な地で、果物はほっといてもあちこちわんさか実っていて取り放題。釣り糸をたらせば、いくらでも魚が釣れる。常夏ですので、床にひくゴザさえあればどこでも眠れる。そんな中で汗をかきながら、こせこせと働く必要がなかったのです。というより「働く」という言葉が存在していないのです。

 ですから、夫は日本人女性が怖いので、いろいろ言い訳をするのですが、終始「なぜ?」といった表情を浮かべています。

 私もこの夫に対して、苛立ちからしだいに同情を覚え始めました。

 なぜなら、自分もどちらかというと、この夫タイプだからです。もちろんここは、勤労の国、日本ですので、やるべきことはやっています。しかし、そのほとんどは嫌々やっています。

 仕事など四六時中サボろうと考えているし、何とか怠けられないかと常に考えています。

 それでは、その島の住人たちは空いた時間にいったい何をしているかといいますと、ただ、みんなで集まってぼーっと海を見ているのです。

 特に、日没の時間になると大変です。みんな沈んでいく夕日をよく見たいがために、激しい場所取りを始めます。

 別にその日の沈む夕日が特別だからという訳でもなく、昨日とまったく同じ夕日なのにです。

 しかし、そのためにつまらないいざこざが起こる。その時登場するのがその村の長老です。うまくけんかの当事者をいなして適当な場所を当てがって座らせる。それが毎日、夕方の恒例行事になっていました。

 そして場所が決まれば、そのあとみんなは、ただひたすら無心に沈む夕日を眺めます。その時カメラの前に座っている夫が言いました。「これが自分たちの一番の幸せだ」と。

 自分は、彼らが幸せそうに夕日を見ている顔を見て、なぜかとても感動してしまいました。大げさでも何でもなく、涙ぐみすらしたのです。

 ひょっとして、夕日どころか、朝日すら見ることがない私たちのような暮らしより、彼らの方こそずっと幸せなではないかと。そしてこれが人間の本来の姿のではないかと思ったのです。

 そして彼らは夕日が水平線に沈むのを見終わった後、お互い世間話を始めます。狭い島なのでお互い隠すことも何もない。その夫も奥さんのことを「最近怒りっぽいが、その理由がわからない」と嘆いていました。

 前置きが長くなりましたが、かつて「物語」とはこういう時に始まったのでないかと思います。

 夕日が終わった後かもしれません、楽しい時間が過ぎようとしたとき、誰かがおもむろにこう呟きます。「夕日ってどこに消えていくだろう」と。または「なぜ次の日、朝日として反対側から登ってくるのだろう」などと。

 もちろん、それを科学的に話せる者はいません。長老ですら答えられません。しかし、その中に普段からつくり話がうまい奴がいるとします。みんなの視線は自然に彼に集まります。彼はおずおずと口を開きます。

 「夕日は海の中に溶けていって、真っ黒になってしまうから、海の神様が海底のサンゴから朝日を作り直して反対側に投げ込むのだ」と。

 周りの者は、さらに不思議に思って質問します。「その神様って一体なんだい?」と。

 話し好きな男はさらに想像を働かせてこう続けます。「神様は何でもできる。何でも作れるのだ。この島もおれたちも」と。そして話はどんどん膨らんでいき、尾ひれがついてやがては壮大な話になっていきます。

 もちろんその中には、つまらない作り話と一笑に付されて、その場かぎりで消えてしまうものたくさんあったでしょう。

 しかし、そんなある日、みんなの気持ちを掴んで、心を震わせるような話が生まれることがあったと思います。

 その話を聞いた者は感動して、お互いの家に帰っていくと家族に話します。そしてその話は村中に広まっていき、ついには村の言い伝えにまで昇華していったのでしょう。

 そして、物語の生まれ方は今の時代でも対して変わっていないと思います。「目の前のわからない何か」を説明するために。

 もちろん今となっては、こういった作り話のほとんどは、科学的に根拠がないとして捨てられることでしょう。サンゴからはどうやっても太陽は作れないことは明らかですから。

 しかし、物語とはそれでいいのかもしれません。話を聞きたい村人たちは、そこに本当の真実なんて求めてなんかいません。ただ聞いて「なるほどなあと納得できればいいのです」。おまけに感動できればなおさらです。

 物語というのは、こうしたたわいもないところから始まって、時代を経て神話まで上り詰めることもありました。そして、これまで生まれたほとんどの物語というのは、たわいのない嘘の話から、神話までの間に存在しているのかもしれません。

 小学生の頃、作り話ばかりしていて嘘つきと言われていた仲村でした。
 ではまた

神話の力

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