仲村比呂のブログ

Written by Nakamura Hiro

ずうーっと、ぼーっとしていたい?

 昔から、何もしないでいることが苦痛ではないです。何時間でもぼーっと空を眺めていることができます。

 逆に、やる事があればあるほどストレスを抱えてしまいます。スケジュール帳が真っ黒だとそれこそ発狂しかねません。

 つまりは根っからの怠け者なのです。それは仕事に限ったことではなく、見なければならない番組や、読まなければならないと思った本も含まれます。とにかく何かをしなければならないという状態がたまらなく嫌なのです。

 ですから時として、食べなくてはいけない、稼がなくてはならない、そもそも生きなくてはならないと思うと、思わずうんざりしてため息をもらすことすらあります。

 それでは、その得意なぼーっとですが、いったい何を思っているかと言いますと、実は何も考えていません。高尚な哲学的命題も、難しい判例の解釈も、最初は考えたいたかもしれませんが、いつのまにか頭の中から薄らいで消えていってしまいます。

 残るのは、ただぼーっとしているという状態だけです。もちろん眠っているのではないので、いろいろな思いは勝手に浮かんできます。腹が立ったことや、懐かしい友達、昔の記憶等々。

 それが五月雨のように浮かんでは消えて、また違う形を伴って浮かんでは消えていきます。

 ただし、それを深く追いかけたりもしません。腹が立ったことを詳しく分析して、原因究明して誰かを糾弾しようと思うこともありません。

 ただ、浮かんでは消えることに身を任せるだけです。そのうち、何も浮かんで来なくなる。そうなったらしめたものです。ようやくぼーっとすることの真価に近づいていきます。

 人によっては、これはただの瞑想ではと言うかもしれません。確かに瞑想に近い感覚はあります。しかし、私は瞑想研究家として、瞑想は瞑想としてきちんとした時間を作ってやっていますので、根本的には瞑想とは違う状態だとは思っています。

 瞑想は意図的にやらないとうまく行きませんし、効果もありません。瞑想についてはまた別の機会に書くとして、とにかくボーッとすることと瞑想の一番の違いは、何の効果を求めないという点です。

 瞑想をするという、何か目的が生じる時点で、ボーッとすることの真価から離れていってしまうのです。

 だとすると、ぼーっとするのはただの暇つぶしで、無駄な時間の使い方でだと思われるでしょう。そして、実はそのとおり、本当にただの暇つぶしの時間の無駄です。終わっても何の高揚もありません。だからこそいいのです。

 意味なく美しい春の空をあくまで眺める。目的なく可憐な生けた一輪の花を眺め続ける。これこそ実は、生きている実感から一番遠いようで、一番近くにいることかもしれないのです。それと同時に、生きている上での生老病死から一番遠ざかっている状態とも言えます。大げさに言えば、仏教でいう解脱している状態なのかもしれません。そんなことを思います。

 そして、外的な何かが起きて、いつしか再び我に返る。そしてまた煩悩多き生活の中に引き戻される。途端に多くの思いと言葉が再び襲ってくる。判断を迫られる。そして、再びぼーっとしたくなる。私の日常は、この繰り返しの毎日と言ってもいいでしょう。

 そして、あのぼーっとしていた幸せな時間から帰ってきたとき、今、ひょっとしたら死んでいたのかもしれないと思う時もあります。 そして死とは、生の対局にあるのではなく、生の中に存在しているのではないかと。そして本当の死は、元に戻れなくなった自分なのではないかと。

 そうだとすれば、私はわざわざ時間を見つけては、毎日死んでいるということになります。

 通知表ではいつも、ぼーっとしていていると書かれていて、両親を心配させ続けた仲村でした。
 ではまた 

ぼんやりの時間 (岩波新書)

ぼんやりの時間 (岩波新書)

  • 作者:辰濃 和男
  • 発売日: 2015/11/19
  • メディア: Kindle版