仲村比呂のブログ

Written by Nakamura Hiro

瞑想はお好きですか?

  日々、迷走はしていますが、瞑想するのは好きな仲村です。毎日これを行うのが日課となっています。
 

 瞑想をしていると言うと、少し前まではオカルトっぽいか、宗教的なイメージをもたれがちだったと思いますが、近頃は、外国の著名人を含めて瞑想を健康法の一つとして取り上げられるようになってかなり一般化してきました。
 

 そうであっても人に話すと、まだ時々?という怪しげな表情をされることもたまにありますが、かなり話しやすくなりました。
 

 しかし、自分の瞑想のやり方は至って自己流です。座禅の本や瞑想の入門本などを一読して始めたものです。
 

 ですから、本格的に曹洞禅などを極めた人からすれば、まったく間違った考え方かもしませんので、それこそ?と思われた方はそちらの本を読んでください。
 

 自分にとっての瞑想とは、怒られるかもしれませんが、簡単に言って「思考を切断すること」です。これに尽きると思っています。
 

 つまり、無理矢理何も考えない時間を作ることです。次々浮かんでくる想念を次から次へとぶった切っていって、強制的に止めることだと言い換えてもいいかもしれません。
 

 当たり前ですが、人は常に何か考えてます。若しくは感じています。
 身の回りのことで言えば生老病死、仕事のことや家庭のこと、人によってはこの国の未来、世界の平和まで。
 

 ぼーっとしているようで、実はいつでも何らかの思念を必浮かべているものです。つまり起きている間は脳(果たして脳が、本当にすべてを考えているかどうかという話はまた別の機会に)がフル回転というわけです。
 

 そして、時にはある一つの思念に支配されて、オーバーフローになっている場合もあります。例えば、うつ状態というのはまさにそういう状態でしょう。
 

 仏教で言えば、人は解脱できないのは、この思念に常に支配されて、あれこれ悩み苦しみ、時には自殺まで考えてしまうからだと思います。
 

 それが相田みつをのように、だって人間だものと言ってしまえばそれまでですが、日々の訓練によって、その思念を断ち切ることができるようになると思います。
 

 その手段が一番有用なのが、私にとっての瞑想です。
 

 それでは強制的に思考、想念を止めてしまうと、いったいそれで何がいいことがあるかというと、瞑想することで自分を忘れる。つまりそれにまつまる煩悩からも自由になれる気がします。
 

 生老病死に対する恐怖から自由になることが、一般的に解脱と言われていることならば、瞑想している間こそ、解脱に一番近い状態かもしれません。
 

 忘我の境地を得ること。つまり救われるということです。
 

 ただし、お釈迦様のように普段から解脱できているような偉人ではないので、あくまで瞑想している間(それもつかの間)だけです。そのだけは、あたかも釈迦に(仏教徒の方すみません)なったような気がします。
 

 一度実際にやってみるとわかると思いますが、その境地はとても澄み切っていて、まるで自分がいないようでいて、同時に全能感に包まれた独特の境地です。達磨大師がこの境地を維持したくて、ひたすら座禅を組んでいた理由もよくわかります。
 

 ただし、問題はこの瞑想をうまくやるのが、簡単そうで本当に難しいことです。
 私も長年やっていますが、うまくいくのは十日に1回あるかないかです。だいたいいつもの手順に従って瞑想に入るのですが、すぐ日常の悩み事や過去の自分などいつもの小さい自分の悩みに振り回されるだけで終わってしまいます。それでも何とか、次から次へと上ってくる想念を叩き潰す(イメージはもぐら叩き)ことを試みます。
 

 しかし、本当にたまに己というものを消すことができ、天のようなもの(天が何を指すかはいろいろな考え方がありますが)と一体になれる瞬間が怒ります。
 

 恐らく、それが夏目漱石が言う「則天去私」の境地なのでしょう。
 夏目漱石の小説にも、何回か主人公が禅寺に行く場面があります。しかしだいたいが失敗に終わって下界に戻ってきてしまいます。
 

 最後の最後まで煩悩から逃れ切れない。これらの主人公と一緒にしてはだめですが、あの大文豪ですら完全な瞑想はマスターしきれなかったのかもしれません。
 

 それぐらい瞑想は難しいものだと思っています。
 

 あとはテクニックの問題になりますが、曼荼羅の絵を見つめ続けたり、薄目を開けながらある音に集中したり、高い山に登って空気のいいところでやったりと、まずは集中するためにいろいろな工夫が試みられたりしているのもそのせいでしょう。。
 ただし、いずれも、私を含めたほとんどの人はただやった気になって満足している気がします。
 

 特にわざわざヨガマットを持って山のてっぺんまでに登って、気持ちよくヨガをやった後に、一心不乱に瞑想している女子をテレビで見たときなど、本当に瞑想ができているのか心配してしまいます。
 

 言い方は悪いですが「こういうところでヨガをやっている自分が好きな」ので終わっていやしないかと。
 

 かといって、激しい修行(滝に打たれたり、護摩行をしたり)というのも違う気がしますが。
 

 みんな、そこまで頑張って瞑想などしたくないでしょう。本当の瞑想は、座禅を組んだり、静寂を探したりしてやらなくても、飛行機の中やスタバの中でもどこでもやれるものだと思っています(特に飛行機の中が最適)。
 

 瞑想をしていると、数時間があっという間に過ぎてしまいます(そこまで行けるのは年に一回ぐらいですが)。
 

 空間すら超越してしまっていたことが後からわかります。
 こういうことがあると、とにかく頭がすっきりしています。ドラッグ(やったことはないですが)酒とは真逆のトリップ感をイメージしてもらうといいかもしれません。
 

 夏目漱石が天と一体となって、我を忘れえた忘我感を則天去私と名付けたように、これを自分風になぞらえれば、自我が天と一体になった「則天唯私」ってところかもしれません。
 

 だからもし、ここまで読まれて、いろいろな悩み事や考え事で頭がいっぱいで、いまにも頭からあふれ出しそうになっている方は、ドラッグや精神科医や自己啓発本に手を出す前に、思考を止めるという意味で、瞑想を試してみられるのも一考だとは思います。
 

 ただし、たまに本当の瞑想に入ってしまい、戻って来られなくなる人がいるらしいので、まずは何かガイダンスのようなものを読んで始めるのをおすすめします。
 

 座禅でいう「渇」というのは、眠ったりするのを起こしたり、怠けているのを戒めるためではなく、喝という物理的な力で、思考を飛ばしなさいという意味だと知った仲村でした。
 ではまた