仲村比呂のブログ

Written by Nakamura Hiro

瞑想とは悩まないこと?

 先日、瞑想のことを書いたらもっと迷走した仲村です。
というのは前回の後、いくつか質問を受けました。

 

 その中の一つが、「思考を切断することで、どうして救われるのか」というものでした。確かに少し言葉足らずだったので、補足させていただきます。
 繰り返しになるかもしれませんが、人は次から次へと思い、考え、そして何かに悩んでいます。それは際限なく、我を失って何かに夢中になっているとき以外は、常に行われていることです。

 

 そして、考える悩みが深ければ深いほど、それについて考える時間が多くなり、やがては思考の全部が取り憑かれてしまいます。
 それを瞑想という技術を使って、取り憑かれてどうにもならなくなる前に、そうした浮かんできた想念を、人為的に消してしまうのです。

 

 つまり、それ以上思考が深く進まないようにシャットアウトする訓練をすると言い換えてもいいでしょう。
 身近な例えですと、「甘い物が食べたい」という想念が浮かんだとします。それをすぐに消してしまうのです。始めたばかりですぐには消すことが無理なら、続いて浮かぶ想念で上書きしてしまう。そしてそれもすぐに消す。

 

「勉強をさぼりたい」と思ってもすぐに消す。「あの子と会いたいな」という思いもすぐに消す(もちろん瞑想の間)。
 とにかく次々浮かぶ想念を消すことを繰り返していくのです。それには、静かな場所とくつろいだ姿勢でやると効果的です。

 

 座禅を組まなくてはいけないと思われるかもしれませんが、基本的にはどんな格好でもいいと思います。例えば涅槃像のブッタのように横になってくつろいでもいいと思います。

 

 こうしてまずは肉体をリラックスさせて、浮かんでくる想念だけにスポットを当てて、消すようにしていると、だんだんと意識的にコントロールしてやれるようになり、次第に甘い物から、身体をむしばむようなヘビーな問題すらも消すことができるようになります。

 

 大げさに言えば、「死にたい」、「殺したい」、「憎い」、「恨む」といいった感情ですら、浮かんだなり消すことができるようになります。
 つまり、人為的に私という存在を「無」にするのです。
 そしてここで大切なことは、消すためにもっと強い想念、例えば道徳や何かの人生訓を使わないことです。

 

「死にたい」を、「生きるべきだ」。「殺したい」を「殺してはだめだ」。「憎い」を「愛そう」などの想ってしまうことと真逆の価値をぶつけると、不思議なことに消えるどころか、さらに強く想ってしまいかえって取り込まれてなってしまいます。
 人は想ってしまう。それはどうしようもないことです。それを真逆の想念を浮かべてしまうのは本末転倒です。かえって死にたくなってしまいがちです。
 とにかく最終的には、想念を消すことに集中する。

 

 それが自分にとっての瞑想です。
 それがさらに進むと、日常生活の中でもある程度出来るようになります。
「仕事がいやだ」と思ったら、すぐに消す。「こいつ嫌な奴だ」と思ったら消す。
 特に日常生活においては負の想念を消すことが大切になってきます(いいことを思ったのに消してしまっては意味はありませんので)。逆に言うと、とにかく限りなくいい想念で満たすこと。それが大切かもしれません。

 

 個人的には、究極的には生老病死に悩まないようになれればと想っています。もちろんそれは煩わされないというだけで、考えることを放棄したわけではありません。
 よく人は、悩むことと考えることをつい一緒にしがちです。瞑想は、悩みの想念は消すことはできますが、問題の根本解決を図ることはできません。
 それは別のフレーズとして、ただ考えるしかありません。考えて考えて自分なりの解決方法を見つけなくてはどうしようもありません。

 

 ただ、瞑想はただの悩みがもたらす無駄な想念に時間も体力も煩わせられないようにするというものです。
 生老病死は人間として逃れないものです。と同時に、考えても考え尽きないことがらです。だから哲学という分野があるのだと思います。
 考える必要はありますが、無闇に恐れて悩む必要はありません。

 

 生老病死にまつわる恐れをつい想ってしまう。それが人の最大の苦しみであり、無駄な想念から自由になることが解脱(違っていたらすみません)だと思います。
 だから、先日触れたように、達磨が座禅をし続けたのは、この問題をひたすら考えるために、ただ無益に悩むのを辞めたかったのだと思います。

 

 ただ、ここで気をつけなくてはならないのは、無駄な想念を消すことは全面的にいいことだけとも言えないことです。
 例えば過労死しそうな状態で、つらいという想念を消してしまうと、肉体が先に悲鳴を上げて本当に死んでしまったりする羽目になります。

 

 まずは、仕事を辞めたり休んだりすることなく、前向きの想念だけで埋めるのも、また危険な状態です。
 ですから、さらに次の段階になると、何を消すべきか、何を悩むべきかを判断できるようになる必要があります。そしてそれができれば瞑想の上級レベルでしょう。
 ここから次の段階になると、とても素人の私では説明できません。これが出来れば様々な宗教での瞑想について書かれた膨大な経典が不必要になってしまうからです。あくまで出来るのは、日常生活レベルの話です。

 

 私は仏教徒ではないので、特に仏教をおすすめするわけではないですが、最上級レベルまで、さらにその上の未知なる世界までガッツリとやりたい人は、その実践のやり方を心理学の専門書か何かの宗教法典かで一から学ぶことをお勧めします。
 かといって、いろいろうじうじと悩んでいる自分も好きな仲村でした。
 ではまた