仲村比呂のブログ

Written by Nakamura Hiro

時間の流れと年末年始

 いよいよ2019年も終わりです。いい1年だったでしょうか。
  会社によっては、来週から休み入るらしいです。今年はカレンダー上の曜日の並びで例年より休みが長くなっています。

 

 自分は、俳句を詠んでいるせいもあって季節(季語)には敏感ですが、土日、祝日といった、カレンダー的なスケジュールに関してはあまり気がないので、今回の年末年始も自分にとってはただの長い休みにすぎません。

 

 こうして普段からも曜日もあまり意識しないで暮らしているので、時々今日が何年の何月何日の何曜日だというとを思い出せないことも多々あります。
 それよりも、つい三日前に雪が降ったとか、空を見ると明日は寒くなるといった体感で思い出す方がよっぽど多いみたいです。

 

 別に曜日なんてどうでもいいじゃないか。しょせん西洋から入ってきた区切り方でしかないでょうよと、つい思ってしまう自分がいます。
 季語が基本的に旧暦に準じているので、陽暦よりも旧暦の方に戻して欲しいと思っているぐらいです。

 

 人間というのは、時間というものを完全に支配下においていると思いがちです。たしかに時計やスマホを見れば、今が何時何分かもすぐわかります。当然カレンダーを見れば、1年の終わりも、残りの日数はどれぐらいかもわかります。

 

 しかし、本当に支配していると言えるのでしょうか。今という時間はわかったとしても、時間は刻々と流れていきます。そして一秒先に何が起こるかは絶対にわかりません。十秒後に空から飛行機が落ちてきて死ぬかもしれないのです。

 

 過去は確定していますが、将来は不確定です。月曜日の次の日は火曜日ですが、その火曜日がその人に必ず来るとは限りません。
 人間という生物は、空間と時間を把握できるからこそこそ安定すると言われています。人間以外の動物は時間という観念がありません。今という時間すら把握できません(していたらごめんなさい)。

 

 眠いから寝る。起きたいから起きる。お腹が空いたら何か食べたい。ああ暑くなった。寒くなった。そういった時間感覚で生きていると思います。
 しかし、それが悲しいかと言うと、時間がわからない反面、時間の流れがもたらす哀しさからも自由だと言ってもいいでしょう。

 

 人間は、時間の流れがわかるからこそ、自分が老いたり、病気になったりするかもしれないと、将来の自分を思い煩い、過去の傷に捕らわれて、悩んで苦しみます。
 だったら、この哀しさから自由になるにはというと、動物のように完全に時間を忘れることなどできません。しかし、少しでも時間の流れを忘れることは、そこから自由になれる気がします。

 

 最近ベストセラーとなっている、カルロ・ロヴエッリ著「時間は存在しない」という本は、こういった意識の流れについての時間ではなく、物理的な時間のことを書いてある本ですが、意識上でも応用ができそうな気がします。
 それは、時間などというものは、意識上において存在しないと思ってみることです。
 

 具体的には、自分の年齢も、他人(社会)が勝手に戸籍上の生年月日から割り出して、お前は○○歳だと言っているだけに過ぎない。そして、自分何歳で、平均寿命は何歳で、そうなると大体あとどれだけ生きられるかと考えることを一切合切辞めてしまうのです。 そうなると、少なくとも自分の中だけは自分は何歳でもなくなります。
 

 先ほど、時間は人を不自由にすると言いましたが、人はついこう考えてしまいます。百歳まで生きねばならないとか、何歳のときには何をすべきかとか。二十歳になったら何ができる、できないなど。
 

 社会も、時間の束縛から自由になるために、何でもかんでも年齢で量ることを辞めてしまったらどうでしょう(だんだん世の中はそうなってきてはいますが)。ふと周りを見回しても、高校に入る一年生が全員同い年と言うのは、少し考えればかなり異様な光景だと思います。
 

 私としては、新たな入学生の中に、十浪して高校に入ってきた30歳の男性や、定年退職後の老人が混じっていてもいいのだといいと思います。
 歳によって決められたノルマとか習慣とか制度というものが、同質性を何よりも尊ぶこの国の社会では、生きる息苦しさを産み出す要因になっていると思います。
 同質性が行きすぎると、大学入試でもストレート入学とかいう言い方があるように、一度の失敗が許されない社会になっていきがちです。

 

  繰り返しになりますが、定年の年齢も、年金支給開始年齢も、平均寿命も、ただ社会が勝手に押し付けてくる一方的な時間の観念に過ぎません。
 今の時間の精度が、便利だと思って利用していますが、個人的に無理やり合わせる必要はないと思います。

 旧暦を採用して2月にお正月のお祝いを派手にやってもいいですし、少しタイトなイスラム暦を採用してもいいとも思います。別に毎日寝なくても、2日に1回だけにしてもいいですし、逆にずっと寝ていたっていいと思います。

 

 もちろん普通の勤人だとしたら、そんなふざけたことは言っていられないかもしれません。しかし、少しでも個人の中で、出来る範囲で導入して、自分にとって心地良い時間の流れを勝手に作ってしまうというは、案外、気持ちいい面白い生き方になるのではないでしょうか。

 

 別に自分の時間まで世に中に合わせる必要はありません。自分だけの時の流れを掴むこと。それこそ時を支配するということだと思います。
 50歳はまだ若い。だから生きねばならない。30歳は若死にだ。そういう考え自体、人を息苦しくさせます。

 

 今年の年末年始の間だけでも、時のことはしばし忘れて、年末なんでどこかの誰かが勝手に決めた2019年という記号の31日と2020年1月1日とする一つの社会的共通言語でしかない。
 それ自体に意味はないと思ってみるのも一興でしょう。
と言いつつも、こたつに入ってお酒を飲みながら、ゆく年くる年見て、来年に思いをはせるのも、それはそれで悪くないと思う仲村でした。
 

 ではまた 

時間は存在しない

時間は存在しない