仲村比呂のブログ

Written by Nakamura Hiro

語ることは小説から学べるだろうか?

 人は語らなくては生きていけない。もちろん言葉に限られたことではなく、身振り手振りを含めたボディランゲージも入る。意思表示と言い換えてもいいだろう。

 そして、一番スタンダードな言葉での意思表示は、まず当然ながら、相手と同じ言語を共有していなくてはならない。犬と言って、猫を想像されたら、そこで終わってしまう。今は翻訳アプリが進化したので、あまり問題とならないが共通言語がベースである。

 会話が始まると、一方が語り出し、しばらく聞いた後に相手が答える。それが順繰りに行われていく。これが会話のルールだ。同時に話しながら聞くということは基本的に人間はしない。やるとしたらけんか(つまり一方的に語り続ける)の時だ。

 そして、片方が話す。それはつまり語ることである。うまい人は起承転結をつけて話す。これも敬語と同じで共通のルールだ。

 さらに会話が続くうちに、相手を前よりも少し深く理解する。仲が良くなったり、悪くなったりするのも一つの結果でしかない。

 もし、文字を含めて誰にも何も語らなかったらどうなるか。他人はその人をどこまで理解できるだろうか。理解できないものに人は感情を持ちようがない。持てたとしても限られる。幽霊に対して怖いとしか感情を持たないように。

 人は他人に理解されることを願う。それが親しくなりたい相手ならなおさらである。より理解されたい。これは一つの欲望であり、人の基本的な思いである。

 しかし、人は大人になるにつれて次第に、他人を理解するためにいろいろな尺度を持ち込むようになる。年齢、性別、ルックス、学歴、しゃべり方、雰囲気。つまり履歴書的なことだ。

 小さい頃は違う。もっとダイレクトで正直だ。好きか嫌いか、気に入るかいないか。言葉は二の次になることも多い。履歴書が介入する余地はない。

 子供がみんなそうかというと、もちろんそうではない。繊細で人見知りでな人は、当然ほかの子供たちから理解されにくい。だから、なんとか別の形で語ろうとする。スポーツや表現、人によっては、暴力という形をとることもある。

 しかし、それは大人になっても変わらない。言葉を覚え、社会のルールを知って、ある程度人とうまく理解し合えていると思っていても、実はうまくできていない人が結構いる。

 そういう人は、ずっと生きづらさを感じている。常に他人との間に薄皮が一枚挟まっているような感覚を持っている。そして、その薄皮をどけられないもどかしい思いを抱いている。そして、それをつい自分のせいにしがちだ。自分がどこか変で欠けたところがあるからだと。

 これは、ただうまく自分を語れないだけである。本当にうまく語るには、元々できる人とは違って修練が必要である。それは、知識や経験ではどうにもならない。

 そして、それをどこで学ぶのか。笑うかもしれないが、それは一番文学こそがふさわしいと思う。知っての通り、文学作品のほとんどは会話と地の文からなりたっている。そして、実は会話と地の文の比率が、そのまま実社会の会話とその他に当てはまる気がする。

 会話が多い人は当然地の部分が少ない。そして地の部分(心の中やその場の状況)が多い人は、その分会話が少ない。

 そのバランスを学べるものは、文学作品しかない。映画や演劇では無理だ。プルーストの「失われた時を求めて」は、ほとんど地の文で構成されている。その作者のプルーストというと、やはりコルクの部屋に引きこもって小説を書き続けた人である。当然、社会において無口だった人に違いない。

 もちろん文学に直裁的な効用を求めるのは、ナンセンスかもしれないが、もし他人に語ることが苦手な人は、会話と地の割合がちょうどいい作品の登場人物の話し方をまねてみるのもいいと思う。

 ちなみに私は、トーマス・マンの作品から話し方を学んだ。しかし、それで会話で他人にうまく理解されたようになったかというと・・・。
 ようやく人並み以下ぐらいになれたぐらいかも。
 ではまた

魔の山 完全版

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