仲村比呂のブログ

Written by Nakamura Hiro

自由はどこにあるのか?

 「自由」という言葉は、みんな好きだと思います。もちろん私も好きです。以前、何かの雑誌での調査を見たとき、好きな言葉のアンケートで、「夢」についで二位に選ばれていました。この結果はまあ納得いくものだと思います。

 しかし、夢について考え始めるのは割合早くからなのに比べて(幼稚園児でも将来の夢について語る)。自由ということについて考え始めるのは、割合遅いと思います。

 だいたい、中二病を患う頃から始まって、自由のことを考えるようになると思います。それは不自由を感じ始めるときと同時期です。 あまりこういう人はいないとは思いますが、自由になりたいなあと一度も思わないで一生を過ごせる人は、ある意味幸せな人だと思います。

 私は学校が大嫌いでしたので、早くも小学校三年生で「早く自由になりたい」と尾崎豊みたいなことを思っていました。

 しかし、飛び出す勇気もなく、耐えに耐え、何とか大学まで出ました。

 そして、就職するのですが、最初に就職したアパレル会社の新入社員研修は、自衛隊基地を利用した過酷なもので、研修の途中で脱走を図ろうとしたぐらいでした。

 それでも、脱走する勇気も無く(富士山麓の樹海だったので現実的も無理)。そのまま、一年ぐらい働き続けたのですが、自由すら夢見ることもなく、ぼんやりと空ばかり見ていました。

 そして何とか転職したのですが、それでもいつも自由のことを考えていました。なんて自分は不自由なのだろうと。

 しかし、ある時、とある先輩にこう言われたのです。
「おまえは文句ばっか言っているけれど、すでに自由だろう」と。

 一瞬言っている意味がわからなかったのですが、その人が補足してくれて理解しました。

 「不自由を感じるのは、選択肢が少ないと思うからで、その選択肢を少ないと思うこと自体、おまえが勝手に減らしたからに過ぎない。それは自由の問題ではなく、別のカテゴリーの問題だ。例えば恐怖とか世間体などのように」と。

 学校も、会社も、選んだのは本人であり、たとえ両親から強要されたとしても、最終的に選んだのは自分だと。嫌だったら頑なに断る自由はあったはずだと。

 つまり、精神は常に自由であり、誰も強制することはできないという意味でした。そして今の不自由な状態も、自由に選択してきた結果なのだと。

 だから人が、自由になりたいというのは理屈的にもおかしいということなのです。生きると言うことが日々選択の積み重ねであれば、今の自分は選択の結果ということになるのでしょう。

 もちろん、肉体的、精神的に強制的に不自由を強いられている場合もあるかもしれません。しかし、満員電車に詰め込まれて、「ああ、自由になりたいなあ」をぼやくぐらいの不自由さは、誰のせいでもなく当然自分のせいであり、嘆く価値もないという意味を言われたのです。

 極論を言えば、人は死ぬ自由を持っています。反対に生きる自由も。健康に生きる自由も、不健康に生きる自由も。ただ、時には法に触れて罰せられることもあれば、人々から嫌われて孤絶することがあるだけです。それが恐怖の源です。

 かといって闇雲に恐怖を無くせればいいというものではなく、まったくなかったら危険に対して無防備となります。それは短慮な無謀な奴でしかないでしょう。

 自由への欲求と恐怖のバランス。自由を感じられるかは、その比重をどこに置くかだと思います。そして完全に恐怖が拭い去ることができない以上、人はだいたいに置いて不自由を感じることを義務づけられた存在なのかもしれません。

 そして、恐怖を取り除こうとする他人の言動には、人は魅了されがちです。そしてそれを実現して成功している人から言われればなおさらです。

 現実では恐怖を克服する訓練を強いるものも多いのも事実です。兵士になるにも、修験者になるにも、営業の恐怖。クレーム電話の恐怖。やらない自由と天秤をかけて克服していくのでしょう。それを経験と言い換えることもできるかもしれません。

 しかし、克服していって人は本当に自由になるのでしょうか。それどころか自らの選択肢を狭めることになっていやしないでしょうか。自由と恐怖を天秤にかけるとき、自分を撓め、強制し、洗脳し続けることになってないかを、常に振り返ることが大切だと思います。

 自分に本当にそれしか選択がないと思い込んでしまったとき、それが失われたとき自らを殺してしまいかねません。訓練や努力が本当に自分の自由にとって必要なのか、やらなくてはいけないかその見極めこそが、きらびやかな選択肢を見せびらかせる情報化社会において必要なことだと思います。

 自由というのは、魅惑的なだけではなく、かつてエーリッヒ・フロム「自由からの逃走」で言っているように、とても扱いが難しいものであり、真剣に向き合わなければならないものです。

 なぜならそれは人の存在の根源に関わるものだからです。取り扱いを間違えると、人によっては破滅してしまいかねません。

 自由に生きること。全ての人間は精神的な意味おいて、すでに自由だということです。目の前に選択肢はないようで必ず何かあります。自ら見えなくしているだけです。行き詰まった時、もうダメだと思ったとき、このことは忘れないでいようと思っています。

 究極の自由、それは物心がつく前の赤ん坊だろうなと思っている私でした。

 ではまた 

自由からの逃走 新版

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